「これは何だい?」琢磨は尋ねた。「これは翔先輩が私にくれたマウスピースです。私と翔先輩は高校時代同じ吹奏楽部でホルンを担当していたんです」朱莉の話に琢磨は頷いた。「そう言えばそうだったな。俺も明日香ちゃんも同じ高校だったし。翔が吹奏楽部だったのは知ってるよ。まさか朱莉さんもそうだったとは……」「知らなくて当然です。だって私は1学期で退学してしまったんですから」朱莉は寂しそうに笑った。「翔先輩は私の命の恩人なんです」朱莉は遠い目をするように話を続けた。「入部したての頃の私は楽譜もろくに読めなくていつも同じホルンを担当してた翔先輩に居残り練習をして貰っていました。5月にコンクールがあって、それに備えて一生懸命練習したのですけど、中々上達しなくて……とうとう翔先輩が土曜日なのに、学校に無理を言って部室を開けてもらって2人で練習をしていたんです。その時でした。突然激しい頭痛と眩暈に襲われ、呼吸困難になって倒れてしまったんです。そしてこれは後から聞いた話ですが翔先輩が救急車を呼んでくれて、さらに病院迄付き添ってくれたんです。救急車の中では私がここまでに至った状況を詳しく説明してくれたと……後からこの話は主治医の先生に聞きました」「朱莉さん。何故そんなことになってしまったんだい?」「金属アレルギーだったんです。私、自分が金属アレルギーの体質だったなんて、今まで知らなくて。主治医の先生の話で私はかなり危険な状況にあったそうです。でも翔先輩が私のことをちゃんと見ていてくれたお陰ですぐに原因が判明したそうです。そしてずっと両親が来てくれるまで先輩は付き添ってくれmました。父も母も翔先輩に何度も頭を下げていました。そしてその後私が金属アレルギーだと言うことを知った翔先輩がこのマウスピースを私にプレゼントしてくれたんです。このマウスピースはコーティングされているので金属アレルギーの私でも使えるよって。これは私の宝物です」「そうだったのか……そんな話は初耳だったよ。翔が朱莉さんにね……」「無理もないですよ。だって翔先輩自信が忘れているみたいだったので」朱莉は笑いながら言ったが琢磨にはまるでそれが泣き顔に見えてしまった。「だから私は翔先輩が困っているなら助けてあげたいし、こんな私でも翔先輩の役に立てるのならって。私のことなら大丈夫です」「朱莉さん……」琢磨
今を遡る事約2時間前――明日香と翔は沖縄のホテルのカフェにいた。「やっぱり沖縄は最高よね~。私、海が大好きよ」明日香は満足げにアイスハイビスカスティーを飲んでいた。「そうだな。だけど明日香。お腹の具合は大丈夫なのか? お前のお腹には俺と明日香の子供がいるんだからな?」気遣って声をかける翔。「まあ、今の所は大丈夫よ。多分今回は産めるんじゃないの?」明日香はまるで他人事のようにのんびりした口調で返事をする。「そうか、ならいいんだが……」それでも翔の不安は拭いきれない。前回は子宮外妊娠と思いがけない出来事があったのだ。今回はその心配は必要なくなったのだが……。「翔、私が無事出産出来るかどうか心配してくれてるのね? それで、お父様や御爺様には話したの?」明日香は意味深な顔で翔を見つめた。「話したって?」「決まってるじゃない。子供が出来たってこと。……自分の」明日香は敢えて私の……とは言わなかった。「い、いや。まだ話していない。だって話せば……」「朱莉さんに会いにお爺様とお父様が日本に帰国して来るかもしれない……からでしょう?」明日香はストローでハイビスカスティーを飲み干す。「ああ、そうだ。だから明日香、お前が出産してから2人には話をしようかと思っているんだ」「でもどうするの? 出産後お父様と御爺様に話をしたとして、何故もっと早くに言わなかったと責められるかもしれないわよ? しかも責められるのは翔だけじゃなく、朱莉さんだって。それとも朱莉さんの方から無事に出産するまでは報告しないで貰いたいと言われたとでも報告するつもり?」「……」翔は黙ってしまった。「……まあ……! 翔、やっぱりそうだったのね!? フフフ……貴方って思った通り最高の男よ」明日香は翔にしなだれかかる。「仕方無いんだ……。祖父に反感を買えば会社の後を継がせて貰えないからな。それに後5年で朱莉さんとの契約婚は終了するんだ。だから朱莉さんには悪いが多少の犠牲にはなって貰うことになるかもしれないな。明日香、俺はやはり最低な男だよ……」明日香の髪に顔を埋める翔。そんな翔を優しく抱き留める明日香。「確かに翔。貴方は卑怯な男かもしれないけど、私にとっては最高の男よ? 琢磨がどう言おうとね」「琢磨? 何故そこで琢磨が出てくるんだ?」しかし、明日香は翔の質問には答えずに
「明日香……」翔はベッドに横たわり、じっと天井を見つめている明日香に声をかけた。「……バチがあたったのかしら……」明日香がポツリと言った。「バチ? 何故そう思うんだ?」「だって自分が産んだ子供をこれから朱莉さんに押し付けて育てさせようと考えていたから」「明日香……」翔は明日香の側に行くと髪を撫でた。「明日香、琢磨は何処か地方都市で明日香を出産させようと考えていたんだ。勿論朱莉さんも明日香の近くに置く考えでね。だけどこうなった以上、明日香。沖縄で子供を産むことにするんだ。琢磨にも連絡を入れるよ。そして2人をここに呼び寄せる」「え……ええ!? 朱莉さんまでここに呼ぶの? だってそれじゃあんまりにも……。朱莉さんにだって東京での生活が……」そこまで言いかけて明日香は言葉を飲み込んだ。「大丈夫だ、きっと琢磨が朱莉さんを説得してくれる。それに彼女にはそれなりの金額を払っているんだ。何ならまた手当てを増やしてやってもいいと考えている。そうすれば朱莉さんだってきっと沖縄に来る事を納得するだろうさ。それじゃ電話をかけてくるから、大人しく待っていろよ?」そう言い残すと翔は病室を出て行った。「翔……」そんな翔を見つめながら明日香は思った。(私は今何を言おうとしていたの? 今迄朱莉さんのことなんか気にも留めずに暮らしてきたのに……?だけど翔は……翔は私のことだけを考えてくれている。それについては感謝すべきなのだろうけど……でも……)何故ここまできて、少しだけ朱莉に対して罪悪感を感じるようになってきたのだろうか?明日香は自分の中に芽生えたある感情に戸惑うのだった――****「すまない、朱莉さん。どうやら明日香の出産場所は沖縄になりそうだ」電話を切ると、沈痛な面持ちで琢磨は明日香を見た。「え……? 翔さんは本気で私を沖縄へ……?」朱莉は言葉を振るわせた。「ああ。翔がそう言ってきた。明日香ちゃんは最低でも2か月は病室のベッドの上で安静に過ごしていないといけないらしいんだ。取りあえず翔が俺を呼んでるからすぐに現地へ向かわないと。朱莉さんは色々準備があると思うからすぐには沖縄へ行けないと思うが、当面向こうで生活するのに必要な荷造りはして置いて貰えないか? つまり臨時の引っ越しの準備を……」琢磨はじっと朱莉を見つめた。「……分かりました。翔さんがそ
その日の夜―― 琢磨は沖縄に降り立っていた。鳴海グループの力を持ってすれば、いくら繁盛記の季節とは言え、航空券のチケットを押させることなど造作は無かった。「ふう……しかし、沖縄は暑いな……」琢磨はガーゼハンカチで汗を押さえながら、メッセージをチェックした。そこには翔からの指示で、用意してもらいたい品や、会社の資料。そして入院先の病院の住所や連絡先が記載されている。琢磨はそのメッセージを見ると忌々し気に舌打ちした。「チッ! 全く……俺は買い物要員で呼ばれたのか? 仮にも鳴海グループの秘書の立場にいる俺を何だと思ってるんだ?」 実は琢磨には翔に内緒にしているある秘密があったのだ。それは会長直々に自分の秘書にならないかと打診されていたのである。つまり、琢磨はそれだけ有能な秘書だと言うわけだ。「これ以上朱莉さんをないがしろにするような行いをすれば……翔。俺はお前の秘書をやめて会長側につくからな」琢磨は小さく呟くと、翔に頼まれた買い物をする為に繁華街へと足を向けた――**** 琢磨が翔に言われた全ての買い物を終え、タクシーで病院へ着くと既にエントランスで翔が待っていた。「琢磨! 折角のゴールデンウィークの休み中に突然呼びつけて悪かったな」翔が笑顔で駆け寄って来た。「ほらよ、頼まれていた買い物だよ。全く……俺が東京に残っていたから良かったものの、仮に海外へでも行っていたらどうするつもりだったんだ?」紙袋を押し付けながら琢磨が言うと、翔は少しの間考え込む素振りを見せていたが……。「う〜ん。考えてもいなかった。でも台湾当たりだったら呼び寄せていたかもしれないな」「おまえ! ふざけるなよ!」琢磨は暑さの為もあり、イライラしながら怒鳴りつけた。「す、すまん。今のはほんの冗談だ。そうしたら自分で何とかやっていたさ」「その話……本当だろうな?」苦笑する翔に、琢磨は睨みをきかせる。「あ、ああ。勿論だって」「それで、ゴールデンウィークが終われ、、お前は東京に戻るんだろう?」琢磨は腕時計を見ながら尋ねた。「……」「おい? 翔、何黙ってるんだよ?」「やはり……直ぐに東京に戻らなければ駄目だろうか?」「はあ? 今、何て言った?」「いや……2、3日は明日香の側にいてやりたいと……」翔は目を伏せた。「また明日香ちゃんに泣きつかれたのか?」
「あら、いいわよ。私は別にそれでも」「え? 明日香ちゃん……今の言葉、本気で言ってるのか?」琢磨は呆気にとられながら明日香に尋ねた。「ええそうよ。翔がゴールデンウィーク明けに東京へ戻るって話でしょう? まあ当然そうなるわよね。仕方ないことよ」琢磨と翔は呆気に取られて口をぽかんと開けて明日香を見つめた。「おい、明日香ちゃん。一体どうしたって言うんだ? 今までなら散々駄々をこねて翔を困らせて結局言いなりにさせてきたじゃ無いか?」琢磨は目の前の明日香が本物かどうか、もはや信じられない思いだった。「何よ、人聞きが悪いわね。でも言われてみれば確かに今迄の私はそうだったかもね。でも不思議だわ」明日香は天井を見つめる。「明日香? 何が不思議なんだ?」翔が明日香の側へ行くと優しく尋ねた。「うん……。お腹の中に子供がいるからなのかしら? もっと大人にならなくちゃって気持ちが不思議と芽生えてきたのよ。母になるってきっとこういうことを言うのかもね」明日香は眼を閉じた。「そ、それじゃ子供が生まれたら子育てはやはり自分で……?」翔が尋ねると明日香は即答した。「それは無理ね。でも3年間は朱莉さんに頼むけどその後は、私が自分の手で育てるって決めてはあるからそれでいいでしょう?」それを聞いた琢磨は苦笑した。(何だよ、それ……。そんな考えじゃ、やっぱり明日香ちゃんはまだまだ子供の考えが抜け切れてないな……)「まあ、明日香ちゃんが納得してくれたなら安心だ。これで翔、連休明けは心置きなく東京に戻って仕事出来るな? それじゃ、俺はもう行くから」翔の肩にポンと手を置く琢磨。「え? 行くって何処へ行くんだ?」翔が背中を向けた琢磨に声をかけた。「おい! 俺はなあ……突然沖縄に呼ばれたから今夜の宿だって決まっていないんだよ! 今からホテルを探さなければならないんだからな!? もう行かせてくれよ!」琢磨は何処までも能天気な翔に苛立ち、声を荒げた。「キャア! 琢磨! 病室で大声を出さないでよ!」明日香が耳を押さえる。「あ……悪かったな。明日香ちゃん。それじゃあな、翔」 琢磨が病室から出ると、翔が追いかけてきて声を掛けた。「琢磨。朱莉さんは何て言ってた?」「ああ。お前の指示ならそれに従うまでだって言ってたよ」「そうか、悪いことをしてしまったな」「そう思うな
「全く急に呼び出すから結局こんな部屋しか泊まれなかった……。くそ! 後で領収書を貰って翔の奴に請求してやる」琢磨はホテルのリビングに置かれている豪華なソファにドサリと座ると部屋の中を見渡した。バーカウンターのあるリビング。そして広すぎる主寝室の部屋には豪華なダブルベッドが2台、さらにこの部屋の奥には扉があり、セミダブルのベッドが1台置かれた寝室がある。客室内には広くてきれいなバスルームが完備されている最高級のホテルである。結局散々ホテルを探して、見つかった部屋が今現在琢磨が宿泊しているホテルのスイートルームのみだったのである。しかも男一人で宿泊と言う事でホテルのスタッフからか奇妙な目で見られている……気がしてならなかった。「まあ宿泊出来たんだから別にいいか。とりあえず、シャワーでも浴びてこよう」琢磨はバスルームに入ると目を細めた。「ふ~ん。ジェットバス付か……。丁度いいな、今日は少し疲れたし」バスルームにお湯を張ると、客室に備え付けのPCを広げて画面を立ち上げた。「あの病院の住所は……ここか。とりあえず不動産屋を何件かあたってみるか……」呟きながら不動産屋の検索画面を出すと、琢磨はバスルームの様子を見に行った。お湯は丁度良い頃合で浴槽に溜まっている。「よし、風呂に入るか」部屋に戻り、着がえを取って来ると琢磨は風呂に入る為に服を脱いだ—— 入浴後、バーカウンターに置いてあったウィスキーを飲みながら琢磨は新しく住む朱莉のマンションを探していた。すると朱莉からメッセージが入ってきた。『荷造り、大体終わりました。明日は京極さんと約束をしているので沖縄行きは明後日でも大丈夫でしょうか?』「そうか……明日は京極と約束していた日だったっけ……」琢磨はその時思った。もし明日沖縄に来てくれと言ったら朱莉は京極との約束を反故にして沖縄に来てくれるのだろうかと……。そこまで考えて琢磨は首を振った。「一体俺は何を考えているんだ? 大体朱莉さんが泊まれるホテルだって見つかっていないのに」そこまで言いかけて、琢磨は自分が今いる部屋を見渡した。「そう言えばこの部屋なら主寝室と寝室があるから泊まれないこともないか」幸いこの部屋はゴールデンウィーク中は全て泊まることになっている。だが……。「馬鹿だな。そことこと出来るはずが無いだろう。それよりも明日以降で朱
翌朝―― 琢磨は朝から沖縄の不動産業者を訪れていた。応対しているのは30代位の女性である。「それでお客様のお探しの物件はこの病院の近くが良いとのことですね?」先程からこの女性は琢磨の顔をチラチラと頬を染めながら物件探しをしている。「ええ。それに交通の便が良いモノレール駅の付近を希望しています。それにセキュリティ対策もしっかりしている賃貸マンションです。出来るだけ早急に決めたいんですが……良い物件はありますか?」「そうですね……お客様お1人で住まわれるのでしょうか?」「ええ、そうですね。出来れば明日にでも住みたい位です」琢磨の言葉に女性社員は驚いた。「え……ええ? あ、明日からですか?」「無理でしょうか?」じっと琢磨に見つめられ、女性店員はますます頬を赤く染めていく。(何て素敵な男性なのかしら……ラッキーだったわ。こんな素敵なお客様の担当になれるなんて……)しかし、当の琢磨は相手の女性社員からそのように思われていることなど知る由も無い。「それでどうでしょう? 何か良い物件は見つかりましたか?」「え、ええとそうですね。何件か見つかりましたが家賃が少々お高めで……」「どんな物件なんですか?」琢磨がPCを覗こうと顔を近づけてきたので、女性社員はますます顔を赤らめた。「お、お客様……い、一体何を?」しどろもどろになりながら女性従業員が真っ赤な顔で琢磨を見つめる。「え? 何をって、物件を見せて貰おうと思ったのですが?」「そ、そうだったんですね。ええと……こちらの物件になります」女性社員が見せてきたマンションはタワーマンションで家賃は35万円となっている。(ふ~ん新築だし、コンシェルジュもいる。2LDKで広さ的にも丁度良いかもな……。しかも南向きか。電化製品も必要な家具も全部揃ってこの値段は手頃な価格かもな。地下には駐車場もついているし……)琢磨はざっとマンションの情報を目に通すと、頷いた。「ではこちらのマンションを賃貸させて下さい。私は代理人なのでここを押さえておいて下さい。明後日実際に住む女性を連れて参りますから」「え、ええ!? 女性が借りるのですか!?」女性従業員が驚いた様に琢磨を見る。「はい、そうですが?」なぜ女性店員が驚ているのか琢磨には全く訳が分からなかったが……この女性従業員の一目惚れの恋が一瞬で終わったのは
翌朝10時――朱莉は母の面会にやって来ていた。「朱莉、珍しいわね。午前中に面会に来てくれるなんて」母は朱莉を見ながら微笑んだ。「うん。午後からちょっと出掛ける用事があるから」「あら? 朱莉が出掛けるなんて珍しいわね。あ、でも最近は教習所に通っていたものね。早く免許が取れるといいわね」「うん、頑張るね」洋子は朱莉の様子がおかしいことに気付いていた。(今日の朱莉は何だか元気が無いわ。一体どうしたのかしら? 時々こちらをチラチラ見て、まるで何か話したいのかしら)「ねえ、朱莉。何か話したいことがあるんじゃないの?」「う、うん。あ、あのね……。実は暫くお母さんの所へは面会に来られなくなってしまったの……」朱莉はそれだけ告げると俯いてしまった。「え? 何かあったの? あ、別にお見舞いを催促しているつもりじゃないのよ? ただ何か重大なことでもあったのかと思って」母は朱莉を覗き込むように話しかけた。「実は明日香さんが沖縄に行ったんだけど……具合が悪くなって、今入院してるの」朱莉は必死で頭の中で言い訳を考えた。「明日香さん、暫くは絶対安静で退院後も療養が必要らしくて沖縄に滞在するんだって。そ、それで沖縄にペットを連れて行っていて……明日香さんの面倒を私が見ることになったの……」朱莉の母は黙ってその話を聞いていたが……。(嘘ね。朱莉は何か隠しているわ。ひょっとしてこの結婚に何か関係しているんじゃないの? でもこんなに辛そうにしている朱莉にこれ以上追及するなんて出来ないわ。だって私がこうして入院治療が出来るのも全部朱莉のお陰なのだから)「そう……なら仕方ないわね」「え? お母さん?」朱莉は顔を上げた。まさかあんな見え透いた嘘を信用してくれるとは思っていもいなかった。「朱莉、それで沖縄にはいつから行くの?」「突然の話なんだけど……明日からなの……」「まあ、明日からなの? それじゃこんな所に来ていないですぐに家に帰って明日の準備をしておかないと。さ、早くお帰りなさい」突然母が急くように言った。「え? お、お母さん?」朱莉は突然の事に面食らったが、母は朱莉をじっと見つめた。「朱莉……落ち着いたら全て話してくれるわよね?」「!」朱莉はその言葉に肩が跳ねた。(お母さんには私が嘘をついていることバレてるんだ……でも私の為を想って何も聞か
2人で一緒にカフェへ入り、窓際の一番奥の席に座った。朱莉はカフェ・オレを頼み、京極はアメリカンを頼んだ。「朱莉さん。コーヒーだけでいいんですか? 何かケーキでもつけましょうか?」京極は笑みを浮かべて朱莉にメニュー表を差し出してきたが、今の朱莉は緊張で食欲など無かった。「いえ、コーヒーだけで大丈夫です」「そうですか、分かりました」メニュー表を閉じると、京極はじっと朱莉を見つめた。朱莉は覚悟を決めて語りだした。「京極さん、すみません。私はもう試写会へは行けないです。どなたかを誘うか、お1人で行っていただけますか? 京極さんに仮免の時の練習を付き合っていただくことも出来なくなりました。本当に申し訳ございません」朱莉は頭を下げた。「理由を説明していただけますか?」「理由……ですか?」「ひょっとすると、先程の電話と朱莉さんが試写会へ行けなくなった理由、何か関係があるのではないですか?」「……」(どうしよう、本当の理由なんて言えるはずが無い。それに京極さんにはお母さんと同じ嘘が通じるとも思えないし……)「この話、言わないでおこうと思っていたのですが……僕は見てしまったんです」朱莉が沈黙していると京極が突如語り始めた。「見た……? 一体何を……」「この間、ドッグランでお会いした翔さんと明日香さんという方が2人で旅行に行く所を見たのです。沖縄に行くと言ってました」朱莉の目が見開かれた。(そ、そんな……明日香さんはたった一度しか翔先輩の名を呼んでいないのに……京極さんは覚えていたの!?)「あの2人は朱莉さんの身内なんですよね?」京極は朱莉から視線を逸らさない。(どうしよう……)いつしか朱莉の心臓はドキドキと早鐘を打っている。「あ、あの……明日香さんと翔さんは兄妹なんです。あの2人は仲が良いんですよ。だから……」(どうしよう、何とか誤魔化さなくちゃ……)「だから2人きりで沖縄旅行に行ったんですか? 貴女を置いて?」その言葉に朱莉の肩はビクリと動く。(いけない……こんなにおどおどしていてはますます疑われてしまう……何とかしなくちゃ……)「京極さん。私も元々沖縄へ行く予定だったんです。でも母の様態が急変して、それで救急車で運ばれてしまいました。その時の様子は京極さんは御覧になっていましたよね? だから私は沖縄行を取りやめたんです
琢磨は部屋でホテルからレンタカー手配の連絡が来るのを待ちながら、沖縄の観光スポットの検索をしていた。そしてふと部屋の時計を見上げて思う。(そう言えば朱莉さんは京極と何時の約束をしているのだろう……)****――15時 朱莉がドッグランへ行くと既にそこには京極が待っていた。「朱莉さん! 来てくれたんですね? てっきり来てくれないのかとばかとり思っていました」京極は少し照れたような顔で朱莉を見つめる。「こんにちは、京極さん。来ないわけ無いじゃないですか。だって約束をしていたのですから」「確かに約束はしましたが、途中で気が変わったりとか、よくある話じゃないですか」「その時は前もってお断りしますよ。それでは行きませんか?」「ええ、そうですね。行きましょう」京極は笑みを浮かべた……。**** 2人で繁華街を歩いていると京極が尋ねてきた。「朱莉さん。教習所の進み具合はどうですか?」「いえ。まだあの後はまだ教習所へは行ってません。色々忙しかったので」すると京極の顔が曇った。「え? 忙しかったんですか? それでは映画の誘い、ご迷惑だったかもしれませんね」「いえ。そんな事は無いですよ。映画を観るのは久しぶりですから」朱莉は笑顔で答えた。(だってマロンを引き取ってくれた人なんだから断る訳にはいかないし)「それなら良かったです、朱莉さんにそう言って貰えると嬉しいですよ」「は、はい」朱莉はいつ沖縄へ行く事を告げるべきかずっと考えていた。(どうしよう……。いつ京極さんに沖縄へ行く事を告げればいい? 今話せば気まずくなりそうだし、やっぱり映画の終わった後で……)そこまで考えていた時、朱莉の翔との連絡用のスマホが鳴った。(そ、そんな……どうして……!?)いつもなら翔からの連絡は朱莉に取って嬉しいことだった。だが、今はタイミングが悪すぎる。「朱莉さん。電話に出なくていいんですか?」朱莉は真っ青になって黙っている。「朱莉さん? どうしたんですか? 何だか顔色が悪いですよ?」京極が心配そうに朱莉を覗き込んできた。「あ、あの、私……す、すみません。体調が悪いので申し訳ありませんが……帰らせていただけますか?」未だスマホは鳴り響いているが、朱莉はそれに出ようとはせずに胸を押さえながら京極に言った。「そうですね。具合かなり悪そうですから
琢磨はホテルで朱莉の分の飛行機の航空券チケットを予約していた。ゴールデンウィークも半ばに迫ってきていた中、何とか片道分の飛行機のチケットを取ることが出来た。クレジット払いを済ませると琢磨は伸びをしながら、呟いた。「片道分か……。朱莉さんが次に東京に戻れるのはまだまだ先になるんだよな……」琢磨は朱莉の母のことを考えていた。時々は朱莉の代わりに面会に行き、様子を伺って朱莉に報告をしたいと考えていた琢磨だったが……。「多分変に思われるだろうな。本来なら翔がお見舞いに行ってあげるべきなんだから……。よし、東京へ戻ったら翔が何と言おうと、時々は朱莉さんのお母さんの面会へ行かせてやる!」琢磨はスマホを手に取ると、朱莉にメッセージを打ち込み、飛行機の便名、日付、予約番号そして「確認番号」を朱莉のスマホに転送した。バーコード転送したのでこれで朱莉はスムーズに飛行機に乗る事が出来るはずだ。メッセージの送信が住むと琢磨は立ち上がった——****「すみません。レンタカーを手配をしたいのですが」 琢磨はフロントに来ていた。明日は朱莉が沖縄へとやって来る。飛行場迄迎えに行き、出来れば琢磨が東京に戻るまでの間、朱莉を連れてついでに沖縄の観光が出来ればと考えていたからだ。「はい、大丈夫です。車種はいかがいたしますか?」男性フロントスタッフが尋ねてきた。琢磨は少しだけ考え……。「ミニバンタイプでお願いします。勿論カーナビ付きで」「お色は何に致しますか?」「色か……なら白でお願いします」「はい、承知致しました。それでは車が届きましたらご連絡させていただきます」琢磨は礼を伝えると、ホテルの中のレストランへと向かった。丁度昼時だった為にレストランはそれなりに混んでいた。琢磨は開いている丸いテーブル席を見つけ、そこに座るとメニュー表を開いた。(流石は一流ホテルだな……。ランチタイムだって言うのに結構な金額じゃないか)琢磨はお金を持ってはいたが、あまり食事にお金をかけるのは好きでは無かった。最悪、食べられればそれでいいと言う考えの持ち主であったので、会社でも殆ど1000円以下のランチばかりを食べていた。そして最近のお気に入りは日替わりで会社の前にやって来るキッチンカーのランチなのであった。琢磨は溜息をつくと、自分の中で一番無難そうなデミグラスソースのかかったオムライ
翌朝10時――朱莉は母の面会にやって来ていた。「朱莉、珍しいわね。午前中に面会に来てくれるなんて」母は朱莉を見ながら微笑んだ。「うん。午後からちょっと出掛ける用事があるから」「あら? 朱莉が出掛けるなんて珍しいわね。あ、でも最近は教習所に通っていたものね。早く免許が取れるといいわね」「うん、頑張るね」洋子は朱莉の様子がおかしいことに気付いていた。(今日の朱莉は何だか元気が無いわ。一体どうしたのかしら? 時々こちらをチラチラ見て、まるで何か話したいのかしら)「ねえ、朱莉。何か話したいことがあるんじゃないの?」「う、うん。あ、あのね……。実は暫くお母さんの所へは面会に来られなくなってしまったの……」朱莉はそれだけ告げると俯いてしまった。「え? 何かあったの? あ、別にお見舞いを催促しているつもりじゃないのよ? ただ何か重大なことでもあったのかと思って」母は朱莉を覗き込むように話しかけた。「実は明日香さんが沖縄に行ったんだけど……具合が悪くなって、今入院してるの」朱莉は必死で頭の中で言い訳を考えた。「明日香さん、暫くは絶対安静で退院後も療養が必要らしくて沖縄に滞在するんだって。そ、それで沖縄にペットを連れて行っていて……明日香さんの面倒を私が見ることになったの……」朱莉の母は黙ってその話を聞いていたが……。(嘘ね。朱莉は何か隠しているわ。ひょっとしてこの結婚に何か関係しているんじゃないの? でもこんなに辛そうにしている朱莉にこれ以上追及するなんて出来ないわ。だって私がこうして入院治療が出来るのも全部朱莉のお陰なのだから)「そう……なら仕方ないわね」「え? お母さん?」朱莉は顔を上げた。まさかあんな見え透いた嘘を信用してくれるとは思っていもいなかった。「朱莉、それで沖縄にはいつから行くの?」「突然の話なんだけど……明日からなの……」「まあ、明日からなの? それじゃこんな所に来ていないですぐに家に帰って明日の準備をしておかないと。さ、早くお帰りなさい」突然母が急くように言った。「え? お、お母さん?」朱莉は突然の事に面食らったが、母は朱莉をじっと見つめた。「朱莉……落ち着いたら全て話してくれるわよね?」「!」朱莉はその言葉に肩が跳ねた。(お母さんには私が嘘をついていることバレてるんだ……でも私の為を想って何も聞か
翌朝―― 琢磨は朝から沖縄の不動産業者を訪れていた。応対しているのは30代位の女性である。「それでお客様のお探しの物件はこの病院の近くが良いとのことですね?」先程からこの女性は琢磨の顔をチラチラと頬を染めながら物件探しをしている。「ええ。それに交通の便が良いモノレール駅の付近を希望しています。それにセキュリティ対策もしっかりしている賃貸マンションです。出来るだけ早急に決めたいんですが……良い物件はありますか?」「そうですね……お客様お1人で住まわれるのでしょうか?」「ええ、そうですね。出来れば明日にでも住みたい位です」琢磨の言葉に女性社員は驚いた。「え……ええ? あ、明日からですか?」「無理でしょうか?」じっと琢磨に見つめられ、女性店員はますます頬を赤く染めていく。(何て素敵な男性なのかしら……ラッキーだったわ。こんな素敵なお客様の担当になれるなんて……)しかし、当の琢磨は相手の女性社員からそのように思われていることなど知る由も無い。「それでどうでしょう? 何か良い物件は見つかりましたか?」「え、ええとそうですね。何件か見つかりましたが家賃が少々お高めで……」「どんな物件なんですか?」琢磨がPCを覗こうと顔を近づけてきたので、女性社員はますます顔を赤らめた。「お、お客様……い、一体何を?」しどろもどろになりながら女性従業員が真っ赤な顔で琢磨を見つめる。「え? 何をって、物件を見せて貰おうと思ったのですが?」「そ、そうだったんですね。ええと……こちらの物件になります」女性社員が見せてきたマンションはタワーマンションで家賃は35万円となっている。(ふ~ん新築だし、コンシェルジュもいる。2LDKで広さ的にも丁度良いかもな……。しかも南向きか。電化製品も必要な家具も全部揃ってこの値段は手頃な価格かもな。地下には駐車場もついているし……)琢磨はざっとマンションの情報を目に通すと、頷いた。「ではこちらのマンションを賃貸させて下さい。私は代理人なのでここを押さえておいて下さい。明後日実際に住む女性を連れて参りますから」「え、ええ!? 女性が借りるのですか!?」女性従業員が驚いた様に琢磨を見る。「はい、そうですが?」なぜ女性店員が驚ているのか琢磨には全く訳が分からなかったが……この女性従業員の一目惚れの恋が一瞬で終わったのは
「全く急に呼び出すから結局こんな部屋しか泊まれなかった……。くそ! 後で領収書を貰って翔の奴に請求してやる」琢磨はホテルのリビングに置かれている豪華なソファにドサリと座ると部屋の中を見渡した。バーカウンターのあるリビング。そして広すぎる主寝室の部屋には豪華なダブルベッドが2台、さらにこの部屋の奥には扉があり、セミダブルのベッドが1台置かれた寝室がある。客室内には広くてきれいなバスルームが完備されている最高級のホテルである。結局散々ホテルを探して、見つかった部屋が今現在琢磨が宿泊しているホテルのスイートルームのみだったのである。しかも男一人で宿泊と言う事でホテルのスタッフからか奇妙な目で見られている……気がしてならなかった。「まあ宿泊出来たんだから別にいいか。とりあえず、シャワーでも浴びてこよう」琢磨はバスルームに入ると目を細めた。「ふ~ん。ジェットバス付か……。丁度いいな、今日は少し疲れたし」バスルームにお湯を張ると、客室に備え付けのPCを広げて画面を立ち上げた。「あの病院の住所は……ここか。とりあえず不動産屋を何件かあたってみるか……」呟きながら不動産屋の検索画面を出すと、琢磨はバスルームの様子を見に行った。お湯は丁度良い頃合で浴槽に溜まっている。「よし、風呂に入るか」部屋に戻り、着がえを取って来ると琢磨は風呂に入る為に服を脱いだ—— 入浴後、バーカウンターに置いてあったウィスキーを飲みながら琢磨は新しく住む朱莉のマンションを探していた。すると朱莉からメッセージが入ってきた。『荷造り、大体終わりました。明日は京極さんと約束をしているので沖縄行きは明後日でも大丈夫でしょうか?』「そうか……明日は京極と約束していた日だったっけ……」琢磨はその時思った。もし明日沖縄に来てくれと言ったら朱莉は京極との約束を反故にして沖縄に来てくれるのだろうかと……。そこまで考えて琢磨は首を振った。「一体俺は何を考えているんだ? 大体朱莉さんが泊まれるホテルだって見つかっていないのに」そこまで言いかけて、琢磨は自分が今いる部屋を見渡した。「そう言えばこの部屋なら主寝室と寝室があるから泊まれないこともないか」幸いこの部屋はゴールデンウィーク中は全て泊まることになっている。だが……。「馬鹿だな。そことこと出来るはずが無いだろう。それよりも明日以降で朱
「あら、いいわよ。私は別にそれでも」「え? 明日香ちゃん……今の言葉、本気で言ってるのか?」琢磨は呆気にとられながら明日香に尋ねた。「ええそうよ。翔がゴールデンウィーク明けに東京へ戻るって話でしょう? まあ当然そうなるわよね。仕方ないことよ」琢磨と翔は呆気に取られて口をぽかんと開けて明日香を見つめた。「おい、明日香ちゃん。一体どうしたって言うんだ? 今までなら散々駄々をこねて翔を困らせて結局言いなりにさせてきたじゃ無いか?」琢磨は目の前の明日香が本物かどうか、もはや信じられない思いだった。「何よ、人聞きが悪いわね。でも言われてみれば確かに今迄の私はそうだったかもね。でも不思議だわ」明日香は天井を見つめる。「明日香? 何が不思議なんだ?」翔が明日香の側へ行くと優しく尋ねた。「うん……。お腹の中に子供がいるからなのかしら? もっと大人にならなくちゃって気持ちが不思議と芽生えてきたのよ。母になるってきっとこういうことを言うのかもね」明日香は眼を閉じた。「そ、それじゃ子供が生まれたら子育てはやはり自分で……?」翔が尋ねると明日香は即答した。「それは無理ね。でも3年間は朱莉さんに頼むけどその後は、私が自分の手で育てるって決めてはあるからそれでいいでしょう?」それを聞いた琢磨は苦笑した。(何だよ、それ……。そんな考えじゃ、やっぱり明日香ちゃんはまだまだ子供の考えが抜け切れてないな……)「まあ、明日香ちゃんが納得してくれたなら安心だ。これで翔、連休明けは心置きなく東京に戻って仕事出来るな? それじゃ、俺はもう行くから」翔の肩にポンと手を置く琢磨。「え? 行くって何処へ行くんだ?」翔が背中を向けた琢磨に声をかけた。「おい! 俺はなあ……突然沖縄に呼ばれたから今夜の宿だって決まっていないんだよ! 今からホテルを探さなければならないんだからな!? もう行かせてくれよ!」琢磨は何処までも能天気な翔に苛立ち、声を荒げた。「キャア! 琢磨! 病室で大声を出さないでよ!」明日香が耳を押さえる。「あ……悪かったな。明日香ちゃん。それじゃあな、翔」 琢磨が病室から出ると、翔が追いかけてきて声を掛けた。「琢磨。朱莉さんは何て言ってた?」「ああ。お前の指示ならそれに従うまでだって言ってたよ」「そうか、悪いことをしてしまったな」「そう思うな
その日の夜―― 琢磨は沖縄に降り立っていた。鳴海グループの力を持ってすれば、いくら繁盛記の季節とは言え、航空券のチケットを押させることなど造作は無かった。「ふう……しかし、沖縄は暑いな……」琢磨はガーゼハンカチで汗を押さえながら、メッセージをチェックした。そこには翔からの指示で、用意してもらいたい品や、会社の資料。そして入院先の病院の住所や連絡先が記載されている。琢磨はそのメッセージを見ると忌々し気に舌打ちした。「チッ! 全く……俺は買い物要員で呼ばれたのか? 仮にも鳴海グループの秘書の立場にいる俺を何だと思ってるんだ?」 実は琢磨には翔に内緒にしているある秘密があったのだ。それは会長直々に自分の秘書にならないかと打診されていたのである。つまり、琢磨はそれだけ有能な秘書だと言うわけだ。「これ以上朱莉さんをないがしろにするような行いをすれば……翔。俺はお前の秘書をやめて会長側につくからな」琢磨は小さく呟くと、翔に頼まれた買い物をする為に繁華街へと足を向けた――**** 琢磨が翔に言われた全ての買い物を終え、タクシーで病院へ着くと既にエントランスで翔が待っていた。「琢磨! 折角のゴールデンウィークの休み中に突然呼びつけて悪かったな」翔が笑顔で駆け寄って来た。「ほらよ、頼まれていた買い物だよ。全く……俺が東京に残っていたから良かったものの、仮に海外へでも行っていたらどうするつもりだったんだ?」紙袋を押し付けながら琢磨が言うと、翔は少しの間考え込む素振りを見せていたが……。「う〜ん。考えてもいなかった。でも台湾当たりだったら呼び寄せていたかもしれないな」「おまえ! ふざけるなよ!」琢磨は暑さの為もあり、イライラしながら怒鳴りつけた。「す、すまん。今のはほんの冗談だ。そうしたら自分で何とかやっていたさ」「その話……本当だろうな?」苦笑する翔に、琢磨は睨みをきかせる。「あ、ああ。勿論だって」「それで、ゴールデンウィークが終われ、、お前は東京に戻るんだろう?」琢磨は腕時計を見ながら尋ねた。「……」「おい? 翔、何黙ってるんだよ?」「やはり……直ぐに東京に戻らなければ駄目だろうか?」「はあ? 今、何て言った?」「いや……2、3日は明日香の側にいてやりたいと……」翔は目を伏せた。「また明日香ちゃんに泣きつかれたのか?」
「明日香……」翔はベッドに横たわり、じっと天井を見つめている明日香に声をかけた。「……バチがあたったのかしら……」明日香がポツリと言った。「バチ? 何故そう思うんだ?」「だって自分が産んだ子供をこれから朱莉さんに押し付けて育てさせようと考えていたから」「明日香……」翔は明日香の側に行くと髪を撫でた。「明日香、琢磨は何処か地方都市で明日香を出産させようと考えていたんだ。勿論朱莉さんも明日香の近くに置く考えでね。だけどこうなった以上、明日香。沖縄で子供を産むことにするんだ。琢磨にも連絡を入れるよ。そして2人をここに呼び寄せる」「え……ええ!? 朱莉さんまでここに呼ぶの? だってそれじゃあんまりにも……。朱莉さんにだって東京での生活が……」そこまで言いかけて明日香は言葉を飲み込んだ。「大丈夫だ、きっと琢磨が朱莉さんを説得してくれる。それに彼女にはそれなりの金額を払っているんだ。何ならまた手当てを増やしてやってもいいと考えている。そうすれば朱莉さんだってきっと沖縄に来る事を納得するだろうさ。それじゃ電話をかけてくるから、大人しく待っていろよ?」そう言い残すと翔は病室を出て行った。「翔……」そんな翔を見つめながら明日香は思った。(私は今何を言おうとしていたの? 今迄朱莉さんのことなんか気にも留めずに暮らしてきたのに……?だけど翔は……翔は私のことだけを考えてくれている。それについては感謝すべきなのだろうけど……でも……)何故ここまできて、少しだけ朱莉に対して罪悪感を感じるようになってきたのだろうか?明日香は自分の中に芽生えたある感情に戸惑うのだった――****「すまない、朱莉さん。どうやら明日香の出産場所は沖縄になりそうだ」電話を切ると、沈痛な面持ちで琢磨は明日香を見た。「え……? 翔さんは本気で私を沖縄へ……?」朱莉は言葉を振るわせた。「ああ。翔がそう言ってきた。明日香ちゃんは最低でも2か月は病室のベッドの上で安静に過ごしていないといけないらしいんだ。取りあえず翔が俺を呼んでるからすぐに現地へ向かわないと。朱莉さんは色々準備があると思うからすぐには沖縄へ行けないと思うが、当面向こうで生活するのに必要な荷造りはして置いて貰えないか? つまり臨時の引っ越しの準備を……」琢磨はじっと朱莉を見つめた。「……分かりました。翔さんがそ